本企画について -なぜ今、演劇-

某給付金の申請のために、昨年度の確定申告書類を見返していました。経費決算書によれば、昨年私が観劇に費やした金額は、年間売り上げのなんと2分の1。正直、私の収入規模から言うとかなりの額で、普段演劇を見ない人からしたら、観劇した後残ったこれっぽっちの金銭で、どうやって生きてきたんだと驚くレベルだと思います。実際、「アタシ、演劇食べて生きてるなぁ」と思った瞬間が何回かありました。優しい先輩たちがご飯を与えてくれました。多分、先輩たちもそうやって、汗水流して得たお金を切り詰め稽古に励んだり、資料を集めて勉強したり、大好きな演出家の作品に足繁く通ってきたんだろうなぁと思います。

 日本の俳優の立場や、演劇の立ち位置などについては勿論問い直すべきところがありつつも、そんなバカみたいな経済状況においてなお私が演劇にこんなにもしがみついているのは、もちろん何より演劇を愛しているから。そして演劇に救われてきたから。それは単に自己表現欲求を満たしてくれるからということだけではなくて、演劇を作る過程を通して他者と心の一番柔らかい部分で交流しあえたり、作品が自分の心のモヤモヤを光も闇も含めて多角的に立ち上げてくれ、言葉ではないコミュニケーションを行うことのできる、パワフルな芸術だから、と思っています。うん、なんだか抽象的な言葉が増えてきました。

 『残花』という、原爆で亡くなった劇団「桜隊」についてのお芝居に出ていたときのこと。私たち座組は、3.11の「被災地」である東北地域を巡演していて、そのうちの一つに宮古市での公演もありました。私は狂言回しのような役で、劇中で喜怒哀楽する桜隊の皆がこのときどうなった、あのときどうなった、という話をお客さんに伝えます。

 そして彼らが亡くなるその瞬間、つまり原爆が落ちる「1945年8月6日8時15分」の訪れを伝えるのも、私の役割でした。演劇は「無い」ところに「有る」を立ち上げる、言ってしまえば大ウソつきな芸術ですが、俳優たちは板の上で、もうほとんど“本当”に、葛藤したり笑ったりするので、お客さんはそれぞれの人物と“本当”に出会い、一緒に彼らの人生を生きます。だから、私が原爆投下の時刻をセリフで言うという、ただそれだけのことも、“嘘”で立ち現れた命を無に帰す、いわば死刑宣告ともなり得るのです。お客さんの心に生まれた、あんなに素敵な登場人物たちを、私のたった一言で、燃やし尽くしてしまう。私自身にアメリカ人の血が流れていることや、東北の土地でもたくさんの命が失われたこと、その両方で私は、このセリフを言うことに恐怖を抱いていました。

 でもこの時の公演は、忘れられないものとなりました。舞台に立っている俳優たちみんなが、そのシーンで客席、つまりお客さんたちから強烈なエネルギーが舞台上に向かって流れてくるのを感じたと言っていました。私自身、(そんなバカな、と言われるかもしれませんが)そのセリフを発した瞬間、暗闇にぼんやり浮かぶ観客席から、炎と水、そしてたくさんの想いが大きなうねりとなって此方に激しく流れ込んでくるのを見ました。劇場にいる一人一人の心にある色んな思いが、空間全体に渦巻き、それを私たちも受け取る。もう自分の意志で作品を進行しているという感覚ではなくて、お客さんに促されて、大事なことを私の声帯と肉体を通して共有していく、パイプにでもなったような気分でした。お客さんに感謝されるとかそんな安易なハナシではなくて、「語らなくてはならない」ということを、劇場に居る全員が共有している感覚。「私」というアイデンティティに付随した色んな記号や意味は消え、誰もがその空間に居るそれぞれと対峙する。ただの人間になる。演劇はお客さん全員と共に作るものなのだということを、痛烈に実感させられる公演でした。

 そういう感覚は多分、出演する側だけでなく、スタッフさんも、演劇を愛してくれる多くのお客さんもが、知っているものだと思います。無いものを有るとする、その嘘が生み出す空間。作品を介したその安全な空間において私たちは「ただの」人間となり、自分と何ら関わりのない人やモノと深く深く交流し、一緒に生きることができる。

 そして、自分の心に引っかかっていた何かが溶けていったり、人に優しくなれたり、劇場を出た後の夜空に向かってアリガトー!と叫びたくなったりする。とんでもなくつまらないと思っちゃうような作品でも、それを「嫌だ」と感じた自分を発見し、翻って自分自身を知ることになる。たぶん、人間はそういう営みを通して、より良い人生とか、より良い社会とかを模索してきたはずです。わざわざ私が言うまでもなく、演劇に関わったり、ちょっとでも触れたりしたすべての人がそれを感じたからこそ、あんなに大昔から現代にいたるまで、この芸術が受け継がれてきたんですよね。アリガトー!

 でもそんな演劇が、本質から否定されるような事態が2020年に起こりました。公演はおろか稽古さえできない。素晴らしい作品たちが、幕を上げることもないまま消えていってしまう。それ自体も勿論ですが、職が失われた窮状を訴えるアーティストに向け、心無い言葉が発されることにも衝撃を受けました。そんなにも、多くの人が、自分らしく生きることを否定的にとらえ、己に禁じてきたのか、と。自分のために生きるのではなく、己を社会の歯車とし生きることを美徳にしているのか、と。

 感染症との共存という課題を突き付けられた演劇界の端くれにいる一人として、私の大好きな演劇を、大切に守っていく方法を考えたいと思いました。微力だけど、演劇や、演劇を通して出会った人たちに頂いた沢山の愛に、私なりの愛で思いっきり恩返ししたいと思いました。粗削りの、情熱ばっかりの場になるかもしれないけど、それでも。

 この「詩劇 響きと怒り」は、演劇に関わったことのない人も含む様々な方に「演劇」というツール、力、場を使って「他者と出会う」ことを楽しんでもらえないだろうか、という試みです。他者と出会い、身体を介して濃“密”に心に触れるという演劇らしさを選んだ、猪突猛進な試みです。でももちろん命を守ります。その間の道を、楽しみながら探していこうではないですか。

 

(2020年5月6日 万里紗)

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